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ここでは2003年8月に胆石症で2週間ほど入院した時の記録を 公開します。退院の1ヵ月後、9月の半ばにまとめてアップした内容を 少しだけ加筆修正しました。 |
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2003.8.6深夜、その日は夕食を外食でとり帰宅。 その時点ですでに右わき腹に軽い痛みを感じていた。 シャワーを浴び横になった途端、痛みがひどくなった。 少なくとも寝付けない痛み。と同時に以前から感じていた、右の背中の ある一部 〜今にして思えば、痛みを感じた箇所のちょうど裏〜に 強烈な「こり」を感じる。 お腹の痛みと背中のこり、どちらも耐えがたくベッドでは我慢できない。 部屋の中を歩き回ってこらえる。背中のこりもひどく、時折2Lペットボトルの ウーロン茶のおまけについてきた指圧グッズを、畳の上に横になって 背中に押し付ける。(証拠物件その1) |
証拠物件その0 このコーナーの取材で使用したデジカメ HITACHI iNC130です。もちろん、パチンコの景品です |
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証拠物件その1 証拠物件その2 |
寝付くことさえできれば、朝、目覚めれば痛みは治まる、そんな風に思って、 半ば強引にベッドに横たわる。 うとうとしかけた頃、痛みで目がさめる。顔から汗が吹き出す。 さすがに病院にいくことを考える。時計を見ると3:30、シミュレートしてみるが とても車は運転できそうにないし、そもそも病院が思いつかない。 唯一「岐阜市民病院」が頭に浮かぶが移動手段がない。 ここで初めて救急車を呼ぶことを思い立つ。 30分痛みに耐えながら考えた挙句、119に電話する。 オペレーターの人には緊急性が十分伝わったようで、救急車は10分とかからず到着。 保険証と身の回り品をリュックに詰め、隊員の方に先導してもらい、救急車に乗車(?) 靴を履く気になれずサンダルを履いた。結局退院するまでこのサンダルを履き続けた。 (証拠物件その2) 車内で体温、血圧、脈拍を測ってもらう。特に異常な数値ではなかったと記憶している。 ここで少し落ち着いたので、どの病院に運ばれるのか聞いてみる。 返ってきた答えは「岐阜中央病院」 ・・・岐阜県、あるいは岐阜市を代表する病院に 相応しい名前であることは理解できたが、なにぶんこの地域の病院事情には疎く、 名古屋で働いているので土地勘もない。 場所を聞いてみると「岐阜西中学校の裏」であるとの答え。 ・・・らちがあかない。場所の特定はあきらめることにした。(証拠物件その3) |
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救急車は病院に到着。自力で降り、歩いて病室に向かおうとするが、 ナースさんにストレッチャーに乗るのを進められ診察室まで搬送される。 出てきたのは丸刈りの若い先生。おそらく自分より年下の先生に診てもらうのは 初めての体験だろう。正直不安がよぎる 先生の質問に答える。病歴や、この痛みがいつ頃始まったかなど。 軽く触診をされた後、腹部レントゲンとCTスキャンをとる。 先生は「腹膜炎かどうか」という部分に関心を持っていた模様。 別の先生が来て改めて触診をしてもらう。 腹膜炎特有の反応が出なかったようなのでとりあえず痛み止めの 注射をうってもらう。1本では効かず、2本うってもらった。 やっと痛みが治まる。その後処置室で点滴をしてもらいながら少し眠る。 日が昇り外来の患者さんがくる頃になってから胃カメラを飲む。 この後、入院するまでの記憶が少しあやふやで、うちへ戻り会社を休み じっとしていたのだが14:00ごろ痛みがぶり返し、また病院へ行き、 さらに22:00ごろ3度痛みがぶり返し、病院へ行き、ここではじめて 「胆石」との診断を受ける。そしてそのまま入院決定。 念のため、最小限の着替えを持っていったので、それを病室のロッカーに 入れて入院生活スタート |
証拠物件その3 |
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証拠物件その4 |
時計は、0:00を回っていた様なので入院日は8/8。 朝起きて、昨晩診断してくれた先生にエコーを撮ってもらう。 「はい、これが胆石です」と説明してもらった画面には確かに 丸い粒のようなものが写っていた。 病室に戻ってから点滴スタート。 しばらく絶食になる、との説明を受ける。 点滴は朝昼晩の栄養点滴と、朝と晩に抗生物質の点滴をミックス。 (証拠物件その4) 実はこれがミソで痛み止めの類はこの中に含まれていない。 案の定14:00頃、痛みが襲ってくる。思えば前日も14:00過ぎだった。 座薬を入れて30分程で落ち着く。とてもベッドから出ようとは思えない。 その後、採血したり体温や血圧を計ったりして1日が終わる ・・・と思った矢先またも痛みがぶり返す。前日とまるで同じパターン。 痛み止めなしに落ち着いていられない現状を痛感する。 |
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翌朝、母が着替えやタオル、コップやスプーンなどを持ってくる。 絶食状態なのだがこれはナースさんのオーダー。いつ食事が出ても いいように、ということなのだろう。 病院から寝巻きを貸してもらえるそうなのだが、(それ故、ここの患者さんは おそろいのいでたちなのだ)動き回りたい僕としては私服のTシャツ、短パン をチョイス。お風呂はダメ、シャワーはOKということなのでシャワーのたびに 着替える事にする。(証拠物件その5) お昼頃入院2日目にして主治医の先生と対面する。 「絶食しながら抗生物質で胆嚢の炎症を抑えましょう。それに先立ちいくつか 検査を受けてもらいます。」との説明を受ける。これすなわちインフォームドコンセント という奴だ。確かにそうするしかあるまい。 ちなみに母は着替えなどを持ってくるとさっさと帰ってしまった。 うちの一族は決して不健康ぞろい、ということはないのだが、 母は付き添いなれている、というか居てもしょうがない、ということをよく分かっている。 ここでやっと冷静さを取り戻す。3日ぶり。というわけで病棟の探検を開始。 ここは岐阜中央病院の5F内科病棟である。ほかのフロアと違い、ここには 事務所のようなセクションがあるため、規模が半分である。 エレベーターを降りて左手にナースステーションがありその左側が食堂。 右側にずらっと病室が並ぶ。 僕の病室は「523」、ナースステーションのすぐ近く。これは僕がいつ発作が 出るかもしれない要注意の患者であることを意味する。 何かあったらすぐに駆けつけられるように、ということだ。 ・・・とここで激しい痛み。 ぐるっといろんなところを巡ってベッドに横になった途端だ。 ここまできても「我慢してれば治まるのでは」と思い、チャレンジのつもりでしばらく我慢。 ・・・治まらない。座薬を入れて事なきを得る。情けなくなってきた。 |
証拠物件その5 |
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証拠物件その6 |
8/8の昼と夜、明けて8/9の昼と、入院してから3度発作的な痛みを覚え、 薬で抑えた。この3度目以降この発作は起きなかった。 その代わりに8/9の深夜、熱が出た。24:00頃のこと ちょうどそのときナースさんが見回りに来たので熱を計って見ると38℃。 風邪で頭がぼぉっとしているわけではないのに熱がある、というのは かなり久しぶりの体験だ。昼間寝ていたせいもあり、眠気もない。 意識もある意味はっきりしている。 ナースさんが心配して氷枕を持ってきてくれる。 心配してくれてはいるが陽気な方のようでニコニコしながら持ってきてくれる。 タオル(証拠物件その6)を巻いて頭を乗せる。これがゴツゴツして心地よくはなかった。 朝になり熱を計ると平熱に戻っていた、この後何度か夜になると熱が出るようになる。 |
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8/10月曜日、お盆休みの直前とは言えど平日である。 会社の仕事も気になるが、まだ鈍痛もありとても復帰の目処はたたない。 10:00からMRIの検査を受ける。技師さんから説明を受け、意思伝達用の ヘッドフォンをつけ、狭い機械の中に入れられる。 技師さんの合図で息を止め撮影するのだが、機械の中がかなりうるさいのが 印象的だった、 さて、突然の入院だったので仕事はほったらかし、どうしたものかと思案した挙句、 会社に連絡、携帯のメールと自宅のFAXに仕事上の用件を送ってもらい、 外出許可を取って自宅に戻り、自宅から仕事をこなすことにする。(証拠物件その7) 外出許可はあっさりもらえた。ナースさんに頼みさえすればOKという感じ。 病院の玄関でタクシーを拾い、自宅へ戻る。10分足らず。意外に近いことを実感する。 仕事自体はどうってないものがほとんど。ただ自分でないと解決できないものもあり、 取引先に現状を伝え理解を得ながらこなしていく。 外出は移動を含めて2時間。何とか終える。 ついでなので、ごみだしをしてから病院に戻る。 痛みがぶり返さないか心配だったがそれもなし、スリリングな2時間が終わる。 特に問題はなかったのだが、外出時間の間は当然点滴ははずしているわけで その分点滴時間がずれ込む。この日は21:00ごろまでつながれていた。 |
証拠物件その7 |
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鈍痛が残るとはいっても、落ち着いてしまえさえすれば、手持ち無沙汰この上ない。 そこで夢中になったのが「夏の高校野球」。 第一試合から第四試合まで、自室のテレビや 1Fの待合室であるときは点滴台を引きずって(ほとんどの場合引きずっていたが・・・) ずっと観戦していた。途中昨年の覇者明徳や春の覇者広陵、久々出場のPLが 次々と敗れ、波乱の多い大会だった。 また、名古屋市港区の「スーパーオートバックス」で西部警察のロケ中に起きた事故の ニュースが飛び込んでくる。 「港区だけに現場検証をしているのが湾岸署だったら面白いのに」 などと思いながらニュースに見入る。 しばらく点滴のみの生活が続く。朝晩に体温と血圧の測定、たまに採血して血液検査。 こんな毎日。世の中はお盆休みに入っているので特に会社のことも気にせずとも良い。 ある日1Fでの甲子園観戦から自室に戻ると空いていた僕の隣に、新入りの患者さんが 運び込まれてきた。 お年寄りで、息子夫婦が心配そうに付き添っている。 何より驚いたのが「あーうー」と激しいうめき声。点滴がつながれ、 看護婦さんも心配そうに見守っている。 僕は部屋を替わることになった。 520号室。ナースステーションからかなり離れた位置だ。 部屋番号では3つしか違わないが途中にトイレや浴室があるのだ。 ベッドやテレビや洗面用具をいれたラックごとゴロゴロ転がして移動。 ヘルパーさんがやってくれたが自分も荷物を抱えベッドの片方を押しての引越となった。 |
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520号室へ引っ越した。 世間はお盆休みに入っていて、僕のお腹の痛みも落ち着いている。 8/14のことだったか、食堂で新聞を読んでいると子供を抱えた男性が 僕の向かいに座って、しげしげと僕を覗き込んでいる。 明らかにほかの患者さんの面会で来ていると思われるのだが、 明らかに僕のことも知っている模様。 思い出した。高校時代の同級生K君だ。 どちらからともなく「おぉーっ!」と再会を懐かしむ。 彼とは3年間同じクラスで、別々の大学進学後、 僕が入手したての車でほかの友人と、僕の進学先の静岡から彼の住む神奈川へ 遊びに言った記憶がある。 15年の時を隔てて彼はお子さん、僕は点滴を抱えての再会。複雑である。 彼のおばあさんがこの病棟に入院しているのだそうだ。 |
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8/14の夜から食事が再開されることになる。待望の食事だ。 この頃の体調はほとんど痛みもなく、夜に微熱が出る程度。正直うずうずしていた。 とはいえ7日間何も食べないでいる。当然はじめは流動食である。 ついにスプーンの出番だ。(証拠物件その8) 運ばれて来たのは重湯に、プラスチックのマグカップに入れられたドロドロのもの。 片方は牛乳の香りがする、ほのかに甘いもの。プリンをつぶしたようなものだ。 もうひとつは・・・いまだに分からないのだが粉節の入ったおさかなテイストのもの。 重湯は仕方がないし、甘味のあるドロドロはそこそこ飲み込めた。 問題はおさかなテイストのもの。 ドロドロでいかんともしがたい。泣きそうになりながら飲み込んだ。 ホントのところは分からないが、残すと流動食から抜け出せないような気がしたのだ。 流動食は結局5回続いた。途中柑橘テイストの流動食や、 明らかにアイスクリームのようなものが並んだが、 「おさかなテイストもの」だけは欠かさず登場した。 8/16昼から3分粥。これは重湯に申し訳程度に米粒が混じっただけでインパクトなし。 ただ「ドロドロ」ものからは解放され、ホントに薄味ながら鶏肉の肉団子やお味噌汁が 並ぶようになる。お箸も使うようになった。 8/17昼からは5分粥、8/18昼からは7分粥という具合にステップアップ。 7分粥ともなるとふりかけがついてくる。また昼ごはんにはオレンジジュースも並ぶ。 これに伴い栄養点滴は朝と夜だけになった。そろそろ退院を意識するようになる。 胆嚢を摘出する必要があるものの炎症が治まればすぐに手術の必要もなく。 お盆休みも終わっているため、少しでも早く退院したいところ |
証拠物件その8 |
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食事が全粥〜常食となった8/21の朝、主治医の先生が来て、 「白血球の値が正常値に戻った。炎症反応はまだ残っているがじきなくなるでしょう、 午後から退院してください。」とのお達し。 「翌日は金曜なので1日でも会社にでて仕事がこなせるでしょう?」というわけだ。 まさに大岡裁き。K先生ありがとうございました。 現にその後の検査で炎症反応はなくなった。 昼食後1Fの受付で精算し、ナースステーションへ挨拶を済ませ、迎えに来た母の車で 病院を後にする。こうして2週間に及ぶ僕の入院生活は終わった。 「死ぬような病気ではない」ということが分かっていると入院というのは 本当に退屈な事件だ。しかし「健康」というのはやはり日ごろの生活習慣の 積み重ねによってよくも悪くもなるものだということも痛感した。 あれから1ヶ月。何事もなかったように僕の生活は回転している。 2003.9.17 2009年 4月加筆修正済み TOPに戻る |